女ひとり 定年退職後の日々の暮らし

いつか行ってみたかった場所、いつかやってみたかったこと。その「いつか」が「いま」となり、実行に移す日々を綴ったもの。

退職して思うこと(3)~ 会社選び

80年代後半のバブル景気の波にのって、幸運にも複数の企業から内定をもらうことができました。そして最終的に、外資系IT企業(米国本社)に入社することになりました。


その会社に決めたのは、IT エンジニアという職種のほかは、次のような理由からでした。


① 米国の文化に憧れていた。
 60年代に育った者にとって、TV番組「奥様は魔女」に出てくるような生活は憧れでした。そして当時、そんな米国人の家庭が近所にありました。大学の英語教師をしていた若い夫婦(奥さんは日本人)です。子供ですから、遊びに行くと、果汁100%のジュースや手作りクッキーを出してくれました。米国の親から送ってきたものだそう。当時の日本は、粉ジュースが当たり前で、クッキーは森永製菓「ムーンライト」くらいでしたから、感激したものです。


 家事も夫婦で分担していて、奥さんにも「家事に時間をかけるよりも、若いうちは勉強してほしい」と言っていました。子供ながら傍で聞いていて、スマートでとてもリーズナブルな考えだと思いました。彼はとくにインテリ派だったのでしょう。後に米国政府の仕事に就くことになり、ロスアンゼルスに帰国しました。



② 制服も寮もない。
 日本の大手企業に入ると、たいてい1~2週間の合宿がありました。体育会系のプログラムで、マラソンや長距離自転車走など、日々、体力、気力をぎりぎりまで使うことで、自社の社員として鍛え上げるのが目的です。この精神論的な研修を避けたかったことも大きな理由です。


 外資系でも合宿はありましたが、ケーススタディやグループ議論、せいぜい近場のハイキングでした。チーム発表の内容がまとまらず、深夜まで激論が続くことはありましたが、総じて合理的なものだったと思います。


 遠方からの入社組にも寮は無く、住宅補助金をもらって、自由に賃貸物件を契約することができました。決まった制服や作業着もありません。これは後に、仕事中に実験室で工具や半田ゴテを握るときも、スーツやワンピース姿、というおかしな光景にもなりましたが。90年代後半に、ポロシャツやブラウス姿のビジネスカジュアルが推奨されるまでは、エンジニアの男性も皆、ネクタイにジャケットのビジネススーツで業務にあたっていました。


③ 他社の比較対象だった。
 就職説明会に行くと、自分の会社をアピールする手段として、同業他社との比較の話がでます。A社はこうしているけど、自社はこうやっています。A社の製品はこうですが、我が社の製品はこうです、と。もちろん自社の方が優れているというストーリーになっています。ところが数社回ったところで、どこもA社が比較対象になっていることに気づきました。この場合はやはり、A社を選びたくなるものです。

 確かにこの年、女子学生の人気企業のトップとして、雑誌にも取り上げられました。いまでもその雑誌は、大切に保管しています。ただし、人気は、その年の採用人数に比例するということを、後に採用活動に係わるようになって知りました。


(この頃の雑誌ELLEはマガジンハウス発行でお気に入りでした。就活用の服も個性あり)



②、③はともかくとして、外資系企業で長年働いていたことで、さらに深く異文化に触れる機会がありました。いま振り返っても、他では過ごすことのできない貴重な日々だったと思います。


退職すれば、当時の地位や肩書は消えて無くなりますが、それまでに体験したことや、そのときに得た知識や技能は、経験として、ずっと自分の中に残り続けます。


それらひとつひとつの経験も、徐々に記していきたいと思います。