女ひとり 定年退職後の日々の暮らし

いつか行ってみたかった場所、いつかやってみたかったこと。その「いつか」が「いま」となり、実行に移す日々を綴ったもの。

退職して思うこと(19)~番外編①

実はすでにリーマンショックの前から、社内のサバイバルは始まっていました。


管理職になって7年が経った頃です。 IT技術はどんどん進化しすから、追いつくのも大変です。相変わらず忙しいばかりで、将来の先行きが見えません。女性登用で持ち上げられ、何かとボランティア業務に駆り出されることにも、嫌気がさしていました。今から思えば贅沢な不満ですが、入社したときから自分は普通に仕事ができればそれでよかったのです。

そろそろ会社から脱出しようと思うようになりました。資格を取ろうと、65万円の通信学習のキットを買って勉強を始めたりもしました。まだ自社の良さを十分理解しておらず、チャンスがあれば、外に羽ばたいて行った同僚たちに続きたい気持ちが芽生えた、迷いの頃です。

2年間の米国駐在を打診されたのは、そんなときでした。任期を終えて帰国する駐在員との交替です。外資系だけあって、海外駐在を希望する社員は多いのですが、私にとっては青天の霹靂でした。数日間迷いましたが、これも仕事を変える機会ですから、行ってみることにしました。行先はNY州の、マンハッタンから北に電車で1時間程行った田舎町です。

就労ビザを取り出発するまでに、3カ月程かかりました。ところがこの間に思いがけないことが起こりました。所属する開発部門が半年後に閉鎖されることが突然発表されたのです。技術力も収益も安定していましたから、我々社員には寝耳に水でしたが、米国本社ではすでに事業転換の計画が着々と進んでいたのでした。


この後会社は、物作りよりも、より収益性の高いサービス事業(顧客の課題をITで解決するコンサルティング事業)に急速にシフトしていきました。数年後には多くの IT企業が同じ道をたどっています。後に聞いた話では、その技術分野の特許出願数や、自社の保有する特許の使用料収入の動きを分析することによって、業界の将来動向をいち早く掴み、他社に先駆けた事業計画を立てるのだそうです。

奇しくも時期を同じくして、同僚はほとんど皆、製品開発を行っている他の IT企業に移ることになりました。こうして道が分かれてしまったこともあり、数名を除いて、かつての同僚とは自然と交流がなくなりました。私も慣れない外国暮らしで、一杯いっぱいです。

いま振り返ると、会社員人生の中で一番忙しくて楽しかった頃の、当時の思い出を語れる仲間が少ないことは残念です。しかし、そこは割り切るしかありません。


つづく。