女ひとり 定年退職後の日々の暮らし

いつか行ってみたかった場所、いつかやってみたかったこと。その「いつか」が「いま」となり、実行に移す日々を綴ったもの。

退職して思うこと(11)~海外アジアの会社と


90年代後半になると、自社で設計開発するコンピュータ製品は少なくなり、コストが安い海外アジアの国々の会社に設計を委託するようになりました。ノートブックPCの液晶パネルなどの電子部品は、韓国から調達するようになりました。


従って、開発エンジニアである私の仕事は、設計の技術力よりも、それらの協力会社をいかにコントロールするかが重要になりました。もちろん基本的な技術は理解できないといけませんが、自分でアイデアを出して解決する高いレベルまでは求められません。


技術力で同僚や後輩の後塵を拝していた私にとっては、働きやすい仕事環境になりました。担当する電子回路がうまく動作しないために、せっかくの休日に実験室でひとり格闘することもなくなりました。「海の日」の連休に出勤した夜に、テレビで、江ノ島海岸が家族連れで賑わっていたというニュースが流れて、気持ちが暗くなることももうありません。


当時の海外アジアの会社は、まだまだのんびりしていて、開発スケジュールが当初の計画よりも遅れることなどは当たり前でした。設計上の問題解決の管理もゆるいもので、担当エンジニアに対策を求めると「次がんばりま~す」という呑気な答えがかえってきたものです。


一方、米国系の会社ではそれは通用しません。すべてが合理的に管理されていて、新製品の発売時期は、感謝祭のブラックフライデーやクリスマス商戦の前と決まっています。それを見込んで利益が計算され、会社会計が組まれています。ノートブックPCは汎用品ですから、発売が1カ月ずれ込むと店頭売価がガクッと落ち込みます。発売の遅れは営業的に大打撃となり会社会計に大きく影響しますから、新製品を予定どおり完成させ、工場の量産に移管することは、我々開発チームの最重要課題でした。


こうした米国の親会社と、アジアの協力会社との板挟みになるのが、我々、日本の子会社の開発チームとなります。私もチームリーダーとして、この頃は頻繁に、台湾や香港、韓国に出張して協議にあたりました。かつての日本企業のように接待の風習が盛んで、昼はおいしい中華料理や焼肉、夜は宴会の席が設けられ、毎回大歓迎してくれました。


お酒があまり飲めない私には、少々辛いときもありましたが、韓国の大手企業のパートナーさん達には、休日にソウル郊外の雪岳山(ソラクサン)へのハイキングや、古都 慶州(キョンジュ)の観光にも連れて行ってもらい、一緒にレクリエーションを楽しみました。


単なる海外旅行では見ることのない現地の人々の日常にふれることができて、今となってはとても懐かしい思い出です。