女ひとり 定年退職後の日々の暮らし

いつか行ってみたかった場所、いつかやってみたかったこと。その「いつか」が「いま」となり、実行に移す日々を綴ったもの。

退職して思うこと(6)~ 海外出張へ

外資系IT企業に入社して、7年ぐらい経った頃です。


パーソナルコンピュータ製品の開発の仕事をやっていましたが、部署の中ではパッとしない社員だったと思います。自分なりにがんばっていましたが、いろいろとハンディがありました。


理学部出身でしたから、工学部で実践的な訓練を受けてきた社員と比べて、基礎的な技術面で劣っていたこと、チームに女性社員はひとりだったので、ノウハウ的な情報があまり回ってこなかったこと、などが大きな要因だったと思います。普段は遅くとも夜8時には退社することを心掛けていましたが、当時は終電近くまで実験室に残っている男性社員が多かったですし、大事なことは、たいてい深夜の雑談の中で決まっていました。


あるとき、チームで設計開発した製品が、日本のみでなく、欧州でも展開されることになりました。欧州向けの数量はすべて、英国の北部にあるスコットランドの工場で製造します。設計段階に比べて、量産になると製造するボリュームが全く違いますから、初めのうちは、いろいろと設計に起因する不具合が出るものです。通常、製造品質が安定するまで、開発したエンジニアが工場に貼りつきで面倒をみて、設計チームと連絡を取りながら、現場で設計修正を試みます。

スコットランドの工場にも、半年間、1名が派遣されることになりました。てっきり、頼りがいのある活躍している人が派遣されるのだろうと思っていました。ところが、次の製品の開発もすでに始まっていましたから、エース級のエンジニアが半年間も抜けるわけにはいきません。


かといって、離れた現場で、自分の判断で動けない若手を派遣するわけにもいきません。中堅社員の中で、居なくなってもさして支障がなかったのでしょう。私に白羽の矢が立ちました。


量産ラインがスムーズに立ち上がらないと、販売活動もできませんから責任は重大です。開発エンジニアといっても、通常はひとつの製品の中で自分の担当するエリアしか詳しくありません。大慌てで、出発までの1週間で、全体の動作をなんとか理解すべく必死で勉強しました。

まだバブルの名残があった頃です。会社はビジネスクラスのチケットを用意してくれましたが、長距離の海外旅行は初めてです。成田から出発して、ロンドンの空港では、スコットランド行きの国内線への乗り継ぎがあります。なんでも、ヒースロー空港は広大で、国内線はターミナルが異なるそうです。向こうで、量産ラインに不良品の山ができて、製造が止まってしまったらどうしよう。海外へ行ける楽しみよりも、不安でいっぱいの、暗い気持ちで飛行機に乗り込みました。


海外出張に行くには、社内規定で、TOEIC 600点以上を保有する必要があります。3年目ぐらいにこのハードルはクリアしていました。チャンスの女神には、前髪しかないと言います。このとき、英語の勉強を続けていなかったら、チームになんとか付いて行ってなかったら、おそらく選ばれることはなかったと思います。


後に、この海外出張は、仕事をしていく上での大きな転機となりました。



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