女ひとり 定年退職後の日々の暮らし

いつか行ってみたかった場所、いつかやってみたかったこと。その「いつか」が「いま」となり、実行に移す日々を綴ったもの。

退職して思うこと(14)リーマンショックが始まった

2008年9月15日に、NYの投資銀行が経営破綻したことにより、突然、リーマンショックが始まりました。


米国の外資系企業ですから、このようなときにはいち早く敏感に反応します。当時はまだ、頑なに雇用を守ろうとする日本企業に先んじて、10月後半には社内で大規模なリストラが始まりました。


それまでは、評価成績の悪い社員がターゲットになってきましたが、今回は違います。各部門単位で削減ノルマがあって、最終的にはとにかく人数を集めなければなりません。何十人も部下を抱えるチーム単位で、一か月後にはそっくり全員が消える、なんていうこともありました。メンバーだった社員は、社内の他事業所や、関連会社、外部の協力会社に移籍していきました。場所が見つかった人はいい方です。いつまでも辞めないひとは、毎週、所属長に呼び出されて勧告されます。


私が手掛けていた新製品開発のプロジェクトも、まもなく凍結されました。社内予算の切り詰めと、世の中の様子から新製品を発売しても購買力がないと予想されること、が理由でした。外資系企業の人件費は、固定費ではなく変動費ですから、製品開発の材料費と同じ扱いなのです。作らないと決めたら、材料もすべて不要になります。


このプロジェクトには多くの人が係わっていましたから、みんな必死で社内の行先を探しました。こういうとき、若手は、これから教え込めばいいですから、比較的すぐに行先が決まります。人件費としても安価なので、引き受け先も負担が軽くてすみます。困るのは中堅からシニアレベルの社員です。私ももはやこの領域です。ここからは、出世競争ではなく、サバイバル競争だと、考えを改めたのはこの頃です。

幸いしばらくして、国の予算で活動するプロジェクトが見つかり、そちらの部署に異動することになりました。国の予算ですから、広く日本国のために資するIT製品を開発するチームです。ここでは日本の大手企業の社員らと一緒に仕事をすることも多くあり、自社の良さに改めて気づくことになります。大学を出てすぐに外資系の会社に入り、ずっと働いてきたので、社内で当たり前と思っていたことが、日本企業では効率よくなされていないのです。


このプロジェクトは約2年間つづきましたが、この仕事を通じて、やっぱりこのまま自社で働くのが一番自分に合っていると認識しました。その後も何人もの優秀な社員が、会社に嫌気がさして自ら転職したり、辞めさせられたりする中、こうして定年までたどりついたのは、このときの経験と気づきがあったからです。


さあ、サバイバルゲームの始まりです!